Masukルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。
同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」
馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。
今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。
「眠くはない」
「考えごとですか」 「整理してる」 「無理はなさらず」ゴードンは短く言って、また黙った。
この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。
ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」
声が、思いきり大きかった。
馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」
エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。
「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」
「誰から聞いたの」 「フィオナさんが、王都を出る前に早馬で手紙を送ってくれた。簡単な経緯と、『エリナが帰ったらすぐ集まれ』って」 「相変わらず手が早い」エリナは小さく笑った。
ルシェムまでの二日間、その手紙はおそらく自分たちの馬車より先に着いていたのだろう。「ルナは?」
「家にいる。猫と一緒に薬草仕分けてる」 「相変わらず」 「相変わらず」マリオの返事に、ふっと肩の力が抜けた。
帰ってきた。
その実感が、ようやく胸の真ん中に落ちた。家の前まで戻ると、戸口にセレーナが立っていた。
馬車を降りる前から、母の目はすでに潤んでいた。「ただいま、お母さん」
「おかえりなさい、エリナ」短いやり取り。
でも、その短さの中に、二日間ずっと心配していた母の気持ちが詰まっていた。 エリナは少しだけ背伸びをして、母の腕の中に身体を寄せた。 いつもなら、こういう触れ合いはあまり長くは続けない。でも今夜は、もう少しだけ。この温度を、忘れないでおこう。
あの玉座の間の、ぴんと張り詰めた冷たい空気を思い出すたびに、この温度を思い出せれば、足元はぶれない。
そんな気がした。翌朝、エリナは早起きしてマリオとルナを呼んだ。
長屋の事務室。いつもの場所に、いつもの三人。 でも、空気はいつもと少し違った。 マリオは胡座をかいて、いつもより少しだけ姿勢が正しく見える。ルナは膝に猫を一匹乗せながら、エリナの方を真っ直ぐ見ていた。「王宮での話、簡単に説明する」
エリナは紙を一枚広げ、王宮で起きたことを順を追って話した。
国王との謁見。父の話。クロヴェルとのやり取り。一年という期限。「魔法に頼りきらない国」の議論を、再び開く可能性。
マリオは途中で何度か目を見開き、最後の方では口がぽかんと開いていた。 ルナは、ほとんど表情を変えなかった。だが、膝の上の猫が一度ゆっくり伸びをした時、その毛並みを撫でる指先がいつもよりわずかに早く動いた。 話し終えると、しばらく沈黙が流れた。「……すごいことになったな」
最初に口を開いたのは、マリオだった。
「すごいというか」
エリナが小さく肩をすくめた。
「大変なことになった」
「同じだろ」 「ちょっと違う」 「どう違うんだよ」 「すごいは結果。大変は過程」 「相変わらずだな、お前」マリオが少し笑った。
ルナがぽつりと言った。「……仕事、増える?」
「増える」エリナが頷く。
「ルナにも、頑張ってもらう」
「うん」ルナの返事は短かった。
だが、その「うん」の中にある引き受けの覚悟は、誰よりも揺るがない。 この子は、言葉が少ない分だけ、約束が重い。 エリナはそう知っている。「で、これから具体的に何やるんだ?」
マリオがあぐらをかいたまま身を乗り出した。
「大きく三つ」
エリナは紙に書き出した。
「一つ目、現場の拡大。ルシェムとベルナだけじゃなく、周辺三町にも石鹸と薬草薬を届ける」
「三町って、具体的にはどこ?」 「ベルナの北のヴァロウ。南のキーシュ。それから、街道沿いのトレネ」 「結構離れてるな……」 「だから、各町に現場責任者を置く」 「責任者?」 「ルシェムでいうマリオやルナみたいな役。商品の管理、現地の協力者の取りまとめ、簡単な販売対応。私たちが直接全部やるのは無理だから、現地の人に任せる」 「誰にやらせるんだ?」 「候補は何人かいる」エリナは別の紙を出した。
「ルシェムで石鹸を使ってくれてる人たちの中で、評判がよくて、字が読めて、責任感がある人。マリオに見極めを手伝ってほしい」
「俺に?」 「マリオは、人の付き合い方を見るのが得意でしょう」 「……まあ、得意かもな」 「お願い」 「任せろ」マリオが胸を軽く叩いた。
「二つ目」
エリナは指を一本足した。
「生産体制の強化」
「うちの台所じゃ、もう無理ってこと?」 「無理」エリナがあっさり認めた。
「石鹸も薬草薬も、量を増やすには専用の作業場が必要。ハンスさんに相談して、長屋の隣の空き家を借りられないか聞こうと思ってる」
「親父に話せばすぐ動くと思う。親父、最近お前のこと『あいつは本物だ』って言ってる」 「ハンスさんが?」 「うん。あの木の容器の話の時から、ずっと」エリナは少しだけ、口の端が緩むのを抑えた。
信頼というのは、こういう積み重ねの上にしか乗らない。「三つ目」
エリナはさらに指を立てる。
「数字の整理」
「数字……?」 「ルシェムで石鹸を使うようになってから、子どもの病気が減った、傷の治りが早くなった、仕事を休む人が減った。そういう変化を、ちゃんと数字で記録する仕組みをつくる」 「どうやって数字にするんだ」 「町の人たちに、聞き取りをする。『最近、子どもが病気で寝込んだ日数は?』『傷が膿んだことは?』『仕事を休んだ日数は?』とか」 「面倒くさそうだな」 「面倒くさい。でも、これがないと王宮への報告にならない」 「そうか……」 「だから、最初はマリオに手伝ってもらう。聞き取りは、人当たりがいい方が成功率が高い」 「俺、また使われるな」 「『使う』じゃなくて『頼る』」 「言い換えただけだろ」 「言い換えで気分が変わるなら、それは大事な技術」マリオが呆れ顔で笑った。
「相変わらずだなぁ、お前」
その「相変わらず」が、今のエリナには嬉しかった。
王宮での緊張感の後で、こういう日常の軽さが、心の余白を埋めてくれる。昼過ぎ、エリナはハンスの作業場を訪ねた。
大きな手で木材を削っていたハンスは、エリナが現れると一度手を止め、目を細めた。「無事に戻ったか」
「戻りました」 「マリオから、おおよそ聞いた」 「相談したいことがあって」 「言ってみろ」エリナは、長屋の隣の空き家を借りたいこと、石鹸と薬草薬の生産専用の作業場として使いたいこと、改造には少し費用がかかること——順を追って説明した。
ハンスは、最後まで黙って聞いていた。
話が終わると、ふっと息を吐いた。「家主は、俺がよく知ってる男だ。話は通してやる」
「ありがとうございます」 「改造の手間賃は、いつも通りでいい」 「いつも通り、って?」 「売れた分から払う」ハンスが少し笑った。
「最初にやった、あれだ」
エリナの胸の奥が、少しじんとした。
最初に木の容器を頼んだ時の、あの取引が、今も二人の間で生きている。「ハンスさん」
「なんだ?」 「……ありがとうございます」今度はもっとはっきり、頭を下げた。
ハンスは、また少しだけ笑った。「礼はいい。お前は、ちゃんと約束を守る奴だ。俺はそういう奴と仕事をする」
短い言葉。
でも、それは契約書何枚分にも値する重みがあった。夕方、エリナは一人で町を歩いた。
久しぶりのルシェムの街並み。市場、井戸、薬屋、肉屋、職人通り。 石畳の継ぎ目から雑草が顔を出していた。家々の壁には、見覚えのある落書き。子どもが追いかけっこをしている声。変わっていない。
二週間しか離れていなかったのに、ずっと長く離れていたような気がする。
市場の端で、マルタが店じまいの準備をしていた。「マルタさん」
声をかけると、マルタは目を上げて、ぱっと顔をほころばせた。
「戻ったかい!」
「はい」 「王都はどうだった?」 「いろいろあった」 「『いろいろ』で済まされる話じゃないだろうよ」マルタはケラケラ笑った。
「ペースト、まだ売れてる?」
「絶好調。それと、最近もう一つ売ってほしいって声があるんだよ」 「もう一つ?」 「石鹸の中でも、もうちょっと匂いがいいやつ。香草入りの。前にあんたが試しに作ってくれただろ? あれが、評判いいんだよ」 「……なるほど」エリナは頭の中で、すぐにそれをメモした。
香草入りの石鹸を、定番ラインに昇格させる。原価は少し上がるが、価格にも乗せられる。 現場の声が一番強い。 王宮で何を語ろうと、玉座の前で何を約束しようと、結局のところ「実際に使う人が何を求めているか」が、すべての出発点だ。 その感覚を忘れたら、自分は父と同じ場所で躓くかもしれない、とエリナは思った。その夜、家に戻って、エリナはセレーナと二人で夕食をとった。
質素な食卓だった。豆のスープと、固めのパンと、少しの干し肉。 でも、温かい。「王都の人は、どんな人だった?」
食事の途中、セレーナが何気なく聞いた。
「いろんな人がいた」
「お父様の知り合いの方も?」 「いた」エリナは少しだけ、間を置いた。
「アルバ殿下が、お父様のことを覚えてた。膝に乗せてもらってたって」
セレーナの手が、一瞬止まった。
「……アルバ殿下が……お父様が、難しい話を図にして見せてくれたって」
セレーナは黙って、皿を見つめていた。
「お父様は」
ようやく口を開く。
「ずっと、誰かに伝えたかったのよ。自分が見ていたものを」
「うん」 「でも、伝えたい相手に届く前に、潰されてしまった」 「うん」 「あなたは——」セレーナが顔を上げた。
「あなたは、それを引き継がなくていいのよ。エリナ。あなたは、あなたの好きなように生きていい」
優しい声だった。
でもその優しさは、エリナの胸の一番奥を、確かに刺した。「お母さん」
「うん?」 「私は、引き継ぐんじゃないの」 「えっ?」 「お父様の夢を引き継ぐ、んじゃない」エリナは静かに言った。
「私は私で、同じものを見たから、同じ方向に歩いてるだけ」
「同じもの……?」 「魔法がなくても、人が幸せに暮らせる仕組み。それは、お父様の夢でもあるけど、私自身が見たいものでもある」セレーナは、しばらくエリナの顔を見つめていた。
それから、目を少しだけ伏せて、頷いた。「……そう」
「だから、心配しないで」 「心配は、する」 「うん」 「でも——応援する」短い言葉。
でも、その一言で、エリナの心の中で、何か一つの重しがそっと外れた気がした。 お母さんの『応援する』。 それは王宮の任務以上に、自分を支えるものになる。夜、自分の小さな机に向かって、エリナはペンを取った。
書くべき手紙は、二通。一通は、フィオナへ。
もう一通は、レインへ。フィオナへの手紙には、ルシェムの状況、現場責任者の候補、香草入り石鹸の評判、ハンスとの作業場の話。
数字と事実を中心にしながらも、最後に一行だけ添えた。『あなたがいないと、事務室が少し広く感じる。早く慣れたい。』
書いてから、自分でも少し驚いた。
でも、消さずに残した。 フィオナなら、笑って読んでくれる気がした。 レインへの手紙は、もう少し短い。 学院での進捗を聞きたいこと、ルシェムでの計画の概要、現場の数字をまとめ次第送ること。 最後に一行。『ルシェムにも、今日少しだけ雨が降った。』
書いてから、しばらくその一行を見つめた。
なぜそんなことを書いたのか、自分でも説明できない。 でも、これも消さなかった。 雨と一緒に来る人だから。 そんな感覚を、いつかちゃんと言葉にする日が来るのか。 あるいは、最後まで言葉にしないままなのか。 今はどちらでもよかった。 手紙を二通封筒に入れ、机の端にきちんと並べた。 ランプを吹き消す前に、エリナはもう一度、机に向かい合った。頭の中に、これからの一年が広がっている。
現場の拡大。生産体制。数字の整理。クロヴェルへの備え。学院との連携。フィオナの王都での動き。アルバとの関係構築。そして——母を、これ以上心配させすぎないこと。
やることは、山ほどある。 でも、一人ではない。 ルシェムにはマリオがいて、ルナがいて、ゴードンがいて、ハンスがいて、マルタがいる。 王都にはフィオナがいて、レインがいる。 そして、玉座の上には、父の言葉を覚えてくれていた人が、いる。この国の中に、自分と同じ方向を見ている人が、少なくとも何人かはいる。
それが、何よりの強さだった。
一年後、何がどうなっているかはわからない。 成功しているかもしれないし、失敗しているかもしれない。でも、少なくとも——
今夜、机の前で一人、ランプの火を見つめている自分は、確かに「動き始めた」。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
ルシェムに帰還。 一年の戦いの、本当のスタートラインに、ようやく立った。 ランプの火を、ふっと吹き消した。 暗くなった部屋で、外から微かに虫の鳴く声が聞こえた。 遠くで、犬が一度だけ吠えた。 ルシェムの夜は、いつも通り、静かだった。レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」
王宮からの帰り道、足が地に着いていないような感覚が、しばらく続いた。 国王との謁見。父の名が再び玉座の前で語られたこと。一年という期限付きの「任」。魔法省、クロヴェル、学院、王宮——それらが一気に現実の輪郭を持った。 エリナは、王都の石畳を踏みしめながら、自分の足音だけを数えていた。 一、二、三、四——。 数えることで、頭の中のざわめきを整理しようとしていた。 王都での滞在は三日だけ、と決まっていた。 一日は謁見。残り二日は、情報収集と今後の段取りに使う。 王宮を出た一行は、まず王都中心部の小さな宿に入った。アルバの配慮で、比較的静かな場所が選ばれている。広くはないが、四人で一部屋を使える程度の余裕はあった。「まずは整理ね」 宿の一室に入るなり、フィオナがテーブルに紙と炭を広げた。「一年でやることを、全部出す。優先順位をつけて、誰が何をやるか決める」「了解」 エリナも椅子に座り、紙の前に身を乗り出した。 レインは壁際に立って腕を組み、ゴードンは窓のそばで外を眺めながら耳を傾ける。「一年の任務、ざっくり言うと三つ」 フィオナが指を立てる。「一つ。ルシェムとベルナ、その周辺三町での石鹸と薬草薬の普及拡大。二つ。王宮に提出するための『数字と報告』の仕組みづくり。三つ。クロヴェルの妨害への備え」「それぞれ、細かく分解する」 エリナが引き継いだ。「一つ目は、単純に量を増やすだけじゃ足りない。使い方の教育、配布ルートの整備、価格の調整、在庫管理……」「二つ目は、今までの帳簿を『王宮向けの言葉』に翻訳する作業ね」 フィオナが言う。「単なる売上表じゃなく、『どれだけ人が助かったか』を数字で見せられる形にしないと」「三つ目が、一番読みにくい」 エリナは少し眉をひそめた。 「クロヴェルがいつ、どの程度まで動いてくるか、見通しが立ちにくいから」
玉座の間は、思っていたより静かだった。 もっと人がいて、ざわめきがあって、豪華絢爛な音楽が流れているのかと思っていた。だが現実は違った。高い天井に反響するのは、歩く音と衣擦れの気配だけ。 赤い絨毯が、まっすぐ玉座へと伸びている。 左右には、重厚な柱が等間隔に並び、その間に王家と歴代の英雄たちのタペストリーが掛けられている。光は高窓から差し込み、床の大理石をほのかに照らしていた。 そして、その最奥。 ひとつだけ高く据えられた椅子。 国王の椅子。 そこに座る人物を、エリナは見た。 ヴァルデリア国王——ラオネル・ヴァルデリア三世。 四十代半ばほどだろうか。鋭さよりも、どこか疲れを帯びた穏やかな目をしている。だが、穏やかさが弱さでないことは、向き合った瞬間にわかった。 人をよく見ている目だ。 玉座の右側には、王宮魔法師団の長と思しき老人が立ち、左側には数人の高官たちが控えている。その中に、見慣れた紋章をつけた男の姿があった。 クロヴェル侯爵。 エリナは、その視線を一瞬だけ感じた。冷たい、というより無色の目。対象を評価し、分類し、その上で切り捨てる目。 見ている。 でも、今はそちらを見返さない。 エリナは絨毯の上を歩いた。両脇をフィオナとレインが固め、少し後ろにゴードンが続く。途中でアルバが横に退き、一行を見守る位置に移動した。 決められた位置まで進み、エリナは跪いた。「アッシュフォード商会、実務責任者——エリナ・アッシュフォードにございます。陛下のお召しにより、参上いたしました」 声は震えなかった。 震えさせないように、喉と舌の動きを意識した。 沈黙が、一拍。 そして、国王の声が降ってきた。「顔を上げなさい、エリナ・アッシュフォード」 落ち着いた、低い声だった。 エリナはゆっくりと顔を上げた。 国王ラオネルの目が、真っ直ぐこちらを見ていた